2016年8月19日金曜日

豊田泰光さんのこと ~偉大な野球人の言葉に耳を傾けよう~

西鉄ライオンズの名遊撃手として、また引退後は歯に衣着せぬ明快な語り口の評論家として、多くの人に強い印象を残した豊田泰光さんが、今月14日に亡くなりました。豊田さんは、福岡市博物館にとっても大切な方でした。本当に残念です。


偉大な野球人でした。私たちはこの人によって語られた言葉に、もっと耳を傾けるべきだと思います。
私ども福岡市博物館も、二度にわたってお話をうかがっています。私が重要だと考えるのは、豊田さんのお話が、抱腹絶倒の笑い話を通して、戦後プロ野球の歴史は庶民が生きた戦後日本社会の歴史そのものであることを、見事に物語っているからです。

豊田さんの西鉄ライオンズ入団は1953(昭和28)年、鉄腕投手・稲尾和久を擁して読売ジャイアンツを相手に日本シリーズ三連覇を果たしたのは1956年~1958年です。
1958年は東京タワーが建った年、戦後日本はテレビの時代の入り口にさしかかっていました。しかし庶民の生活は、ようやく敗戦後の混乱から立ち直って、落ち着きを見せ始めた頃、まだ高度成長の果実など行き渡っていない時代でした。

でも、そんな説明は抽象論に過ぎないかもしれません。豊田さんの語りを通すと、こんな感じになります。


有馬(以下A) 豊田さんがこれ*によると最初月給3万円っていうことでしょう。
豊田(以下T) 3万円でしたね、はい。
A それで感じがなかなかつかめないんだけども、どんな感じですかね、当時3万、まあ高卒だからたいへんなもんでしょうけど。
 ああ、たいへんなもんですよ。
はい、あのー、昭和28年はですね、8千円ですね、ええ、学卒8千円。高卒が35百円から4千円ぐらいの間ですから、食ってけないですよね。親の仕送りとかなんかないとね、やってけないですよね。だから西鉄でいちばん安いやつは1万円でしたね、1万円。
A 月給が?
T ええ、でも道具買わないかんから。やっていけないですよね。だから相当な苦しさでしたね。


A 感覚的に水戸商業からプロ野球に行くのは、まあ例えばプロの選手になったらどういう生活をするんだろうとか、そういうレベルでいうと、入る前にどういうふうに感じてらっしゃったんですか。
T まったく知識ないです。
A なし?
T ええ、ないです。大学行くつもりでいましたから。そしたら甲子園から帰って、父親見たら、こう揺れてますから、ああおかしいなあと思ってですね、で、もうこれは就職しなきゃいかんかなと思って、最初はですね。
日立市に住んでましたから、日立製作所と日鉱日立が野球部ありますから、これどっちかに就職して、まあ就職はできると思ってますから、野球でね、できると思ったですから、それでまあ親孝行でもせにゃいかんかなあっていうふうに思ってたときに、スカウトが来たんですよ、学校の校長室にね。
で、校長はとにかくプロに出したくてしょうがない人だったんですよ。ええ。もうとにかくね、甲子園に行ったときはまた喜んでね。それでとにかくスカウトの、あの宇高さんに、お宅はプロ一人もいませんねって言われたら、いや今年2人入るつもりですからって自分で言ったんですよ(笑)。行けと言わんばっかりだもん、だからまあ


A まあそうすると、プロの選手になったらこのくらいのいい生活はできるだろうとか、そういうイメージはないんですか。
T ないです、ないです、ないです。合宿に入ったから()
A それはそうだけど。
T ご飯は何杯食べてもいいっていうだけですから。おかずがないんですから。
A その話もすごいですよね。
T ええ、だからあれですよね、ご飯のおかずってのは、一膳食べたらおかずなくなっちゃうんですから。で二膳めから食べるのは、あの高菜の油炒めあるじゃないですか、あれが丼一杯あるんですよ。あれがご馳走ですから、二杯めから。あれは今でも好きですよ()

A だから例えばその、それこそ体が資本のプロスポーツの選手でっていう、なんかそういう栄養学的な発想とかね、皆無ですか、それは。
T 皆無ですね。ですから興味は持ちますよね。何で精つけたらいいかとかね。
だけど三原**さんってね、すごいと思うのは、遠征にいったときに生魚食うなっていうんですよ。氷の冷蔵庫の時代ですから。合宿でももう魚、生魚が一回も出たことがない。
三原さんはね、生魚食わせなかったのは正解なんですよ。だから生魚をね、平気で食ったのは稲尾だけですよ。鮮度を知ってますからね、あれは。
A ええ、慣れてますからね***、それは。
T ええ、なんかこうやって、大丈夫、大丈夫、大丈夫って食べるんですよ、自分で。僕はもうおっかなかったから食べないとね、食べないんですか、豊田さん、じゃあ代えましょうっていってね、おしんことね、刺身とっかえるんですよ。だからあいつのエネルギーだいぶ僕のですよ()


T 面白い時代ですよ。そんなのは笑い話なんですから。
A そうですね。でもまあ、これも歴史の一コマで、やっぱりいろんな形でですね、ちゃんと残しておくべきだろうなあって思うんですね。
T あーそうですね、そうですね。あのころはね、面白く生きないと辛いんですよね。だからもう、だいたいみんな面白い話にいっちゃうんですよ。作り話でもなんでもいいから面白くしちゃうんですよね。だからそういうのって、僕もけっこう好きだったですよね。騙されてきいてましたけどね。
A ああ、なるほどね。面白くしないと辛いってのは、なるほどね。そうですよね。
T ええ、辛いですよ。ほんとうに辛いですよ。腹へってるかなんて聞けないですからね、いつもへってるから。だからおごってくれるのってなっちゃうからね()。聞かないですもん、そういうことは。


面白く生きないと辛い時代。博多っ子を熱狂させた野武士野球の時代背景と言ってしまうと、訳知りに過ぎるかもしれません。豊田さんのお話、もう少し続けます。

*『風雲録 西鉄ライオンズの栄光と終末』(1985年)
**三原脩。195159年に、西鉄ライオンズの監督をつとめ、リーグ優勝4回、うち3回は日本シリーズ優勝に導く。1960年、セ・リーグの大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)監督に転じると、万年最下位のチームをリーグ優勝・日本一に導き、三原魔術と称された。
***稲尾投手は別府市出身で父親は漁師。子供の頃から漁の手伝いをしていた。


豊田さん晩年の語り口にもう一度接してみたいと思われる方は、館内の常設展示室でインタビュー画像を公開しています。ぜひ当館へ足をお運びください。

2016年6月10日金曜日

都市福岡を極める/究める~その② 海を見ていた福岡~

忘れた頃にやってくる更新にお付き合い頂いて恐縮です。深く反省しております。。。

前回は、わが百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だったというお話から、福岡市博物館の正面ゲートが、さして便利とはいえないよかトピア通り側にあるのはなぜかという謎に迫りました。博物館の南北の軸線は、海に向かって開かれた百道浜の開発理念を体現したものだというのが、前回の結論です。

そしてここからは、前回の予告どおり、博物館の軸線が示す理念は、都市福岡の来歴を語っているのだというテーマに入ります。

百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だった、なんてなぜ言えるのか。その問題はおいおい考えるとして、ここで、都市福岡の来歴にかかわる、面白い資料をご紹介しましょう。

地形を極端にデフォルメした技法が特徴の観光鳥瞰図で一世を風靡した、吉田初三郎による福岡市の鳥瞰図です。お好きな方は一目で分かりますね。依頼したのは博多商工会議所、1936(昭和11)年頃に描かれたものと考えられます。

博多観光鳥瞰図、原画、当館蔵


1936年は博多港の築港竣工を記念して、築港博覧会が開催された年です。博多商工会議所はこの機会に、観光振興の大キャンペーンを企画したようです。観光鳥瞰図を印刷して配布するのは、当時は最新流行の手法でした。それにしても超売れっ子の初三郎、さぞかしギャラも高かったことでしょう。

華麗な彩色と、広げた翼が博多湾を抱え込むような構図は、初三郎鳥瞰図の特徴を遺憾なく発揮して、心躍らせるものがあります。しかしこの鳥瞰図には、それ以外に特筆すべき特徴があるのです。
初三郎が描いた都市鳥瞰図の中には、福岡市以外にも海に面した海港都市を描いたものがたくさんあります。それらの海港都市鳥瞰図に比べると、福岡市の観光鳥瞰図の構図は、実はとても例外的なのです。

ご近所の例として、小倉の鳥瞰図と比べてみましょう。小倉は画面の手前が海、次に町があり、背後に山という構図で描かれています。実は初三郎が海港都市を描くときは、ごく少数の例外を除いてこの構図が基本なのです。初三郎は日本本土のみならず、植民地朝鮮の釜山・仁川や、大陸への玄関大連など、海外の海港都市も描いていますが、それらも画面手前から海・町・山という構図をとっています。これを仮に「海から都市」構図としましょう。

小倉市交通名所図会、北九州市立自然史・歴史博物館所蔵

福岡・博多を描いた鳥瞰図は全く逆に、画面手前に山(というほどのものではありませんが)、中央に町、そして画面奥に博多湾から連なる海が水平線の彼方まで広がっています。「都市から海」構図です。人びとの視線を「海へ!」と誘うような、強いベクトルを感じませんか?

福岡市観光鳥瞰図には、ほぼ同じ時期に初三郎門下生によって描かれたものが、少なくとも二種類知られています(原画と印刷版を合わせて一種類と数えて)。描かれた初三郎以外によるのも、すべて例外無しに「都市から海」構図なのです。
これは発注した博多商工会議所や福岡市観光協会が指定した構図なのか、それとも福岡市鳥瞰図を描こうとすると、おのずとこうなってしまうのか?
いずれにしても興味尽きない構図です。

ここでもう一歩、描かれたもののディテールに寄ってみましょう。福岡市中心部から現在の東区箱崎辺りにかけて、海岸に沿って建物が描かれていない長方形の空白の区域があります。これが完成したばかりの埋め立て地。埋め立てで港湾を整備し、同時に工場を誘致して産業都市として発展したいというのが、明治以来の福岡市の悲願だったわけです。

しかしこの鳥瞰図の主眼は、そのことよりも市内と近郊の観光・遊覧スポットを紹介することに重点が置かれています。築港記念で観光?
それは、近代福岡市がめざした発展ベクトルの軌道修正だったのではないかというのが、私の仮説です。企業誘致から観光振興へという軌道修正への模索が、昭和戦前期のこの辺りから始まっているのではないか。そして、楽しく伸びやかな遊覧都市を描こうとすると、必然的に「都市から海」構図になるのではないか。

このブログ初回の「上書き都市」論の中で、一度はめざした工業都市の夢をあきらめたことが、今日の福岡市発展につながったと申し上げました。明治以来の工業都市路線と、新たに芽生えた遊覧都市路線のせめぎ合い。それが初三郎鳥瞰図に表れているという仮説はいかがでしょうか。
そして、初三郎鳥瞰図の海に向かう伸びやかな視線は、後者の勝利を予測していた?
さすがにそれは深読みしすぎか!

でも、福岡市博物館が体現している「海へ!」の軸線は、都市福岡の来歴を物語っているという説には、ご納得頂けるのではないかと……ダメかな?(笑)


2016年4月13日水曜日

市史粉塵 その2・谷ガールに先達あり






 
 前回の谷ガール、出たばかりの市史だより特集「四十八渓ウォーク」をネタに、どうだ!と言わんばかりの得意顔をしてしまいました。今回は、恥ずかしながらちょっとだけ「ごめんなさい」です。

 先日、博物館の事務室で資料のコピーをしながらちらりと横を見たら、いきなり「四八の谷」の文字が目に飛び込んできました。それはコピー機の横に座っている電話交換のスタッフが見ていた情報誌で、そこには、「四八の谷と勤王派」の見出しが……。思わず、「ちょ、ちょっと何それ?」と叫んでしまったのですよ。

 情報誌の名は『福博歴史探訪~福岡市観光案内ボランティアと巡る福岡・博多のまち~』、旅情報誌「遊人」別冊、2014年保存版となっています。




 ちなみに当館のスタッフは、受付や電話交換などの仕事の合間に、情報誌や図録を通して情報を仕入れ、お客様のお相手にそなえているのです。おかげで気がついてよかった!

 『福博歴史探訪』で「四八の谷」とくれば、これはもう間違いなく四十八渓のことでしょう。
 「南公園から続くこの一体(大休山)には四八もの谷があるといわれ、今も御所ヶ谷や風切谷等の地名や呼び方が残っています。」



 はい、今なら私もよく承知しております。先達さんがいらっしゃるとは知らず、失礼いたしました(ライターさんを案内された福岡市観光案内ボランティア協会のガイドさんのお名前も記されていました)。

  この保存版は「黒田家ゆかりの地巡り」という特集になっています。2014年といえば官兵衛ブームのさなか。当館の特別展にも大勢のお客様が来て下さいました。別に浮かれていたわけではありませんが、この記事に気がつかなかったとは!

 とりあえず、恐るべし!ボランティアガイドさんということで、今回の「ごめんなさい」でした。

※「福博歴史探訪」は、こちらからご覧いただけます。
http://lb.ebpark.jp/upload/book_data/O01320/HTML5/pc.html#/page/1

2016年3月4日金曜日

都市福岡を極める/究める ~その① 福岡市博物館正面ゲートの謎~

 先日、市の広報課から「FUKUOKA NEXT」の取材を受けました。フクオカネクストは、フクオカという都市の活力を次のステージへ飛躍させるチャレンジとして、福岡市が進めようとしているプロジェクトです。
 あれこれ考えて私が掲げたテーマは、「都市福岡をキワめる」です。近いうちに「FUKUOKA NEXT」のfacebookなどに掲載されると思いますが、とても小さいスペースなので、ここで説明し直しておきましょう。

 まず第一は、「キワめる」とカタカナ書きにした所がミソ。極めると究めるを掛けたつもりです。「極める」とは、日々暮らす場、あるいは訪れる先としての福岡という都市にとことん関わってみよう、街を活かし尽くし、楽しみ尽くしてみようという意味を込めたつもりですが、どうでしょうか?
 そして「極める」ためには、「究める」ことが必要です。地理学者のように眺め、解剖学者のように切り刻み、考古学者のように掘り返す、つまりは都市福岡を知り尽くそうというわけです。

 
 結局のところ、私のNEXTチャレンジは、福岡にかかわる新しい都市論を組み立てたいということかな。そもそも、福岡という活力にあふれた都市を素材に、過去と現在を行ったり来たりしながら新しい都市像を描いてみたいなんて、誰でも一度は考えてみることですよね?

 というわけで、まずは最も身近な足下の問題からはじめましょうか。
 実は私には、自分が勤務する博物館について、かねてから大きな疑問があったのです。ご承知のように、福岡市博物館にはよかトピア通りに面して、立派な正面ゲートがあります(凱旋門みたいなアレです)。でも、この正面ゲートを通って入館されるお客様は、ご存知の通りとても少ないのです。多くのお客様は、駐車場への出入り口となっている東口を利用されます。利用頻度の低い正面ゲート! これって来館者の動線を読み違えた設計ミス? でも百道浜を開発した都市計画のプロがそんな初歩的なミスをするかしら?

 多年にわたるマイチャレンジならぬマイミステリーを解いてくれたのは、私共が昨年12月に開催したシンポジウムでした。講演していただいた福岡市住宅都市局の上瀧部長(百道浜の開発に関わった方です)が、百道浜ははじめて海に向かって開いた開発だったと話されたのがヒントです。

福岡タワーに向かい、南北につらぬく百道浜の軸線
 埋め立て地である百道浜は、東西に走るよかトピア通り(かつての海岸線)を底辺とした台形をなしています。その中央を南北につらぬいて福岡タワーに行き当たる、現在の名称で言えばサザエさん通りが、海に向かった軸線をなしています。
 海に向かって開発された街と考えたとき、この軸線の重要性が明らかになります。百道浜という街の性格を表現しているわけですから、文字通りの軸線ですよね!

 福岡市博物館の南北に長い敷地においても、この軸線が意識されています。博物館の軸線は、百道浜という地域の軸線に伴走している。もう分かりますね? 博物館の入り口は、便利であろうがなかろうが(ご利用者の皆さまごめんなさい!)、よかトピア通りから海に向かう場所になければならなかったのです。これは動線の問題ではなく、理念の問題だったのです。

百道浜の全体像(開発当初の頃)
 私個人としては、ともに歩んだ百道浜という地域の開発理念が、博物館の設計に体現されていると考えるのは悪い気分ではないのですが、勝手な感想でしょうか?
 でも次回は、博物館の軸線が示す理念は、百道浜という地域の成り立ちを越えて、フクオカという都市の歴史そのものを体現しているという、もっと手前勝手かもしれない話に強引に持って行くつもりです。ご異論のある方は手ぐすね引いてお待ち下さい。

2015年11月5日木曜日

市史粉塵 その1・谷ガール

 



 
 わたくし、博物館長とともに福岡市史編集委員長を兼ねております。文字通り獅子奮迅の働きを続ける編さん室スタッフの影で、粉塵のようにフワフワと漂うだけの編集委員長による、福岡市史編さんにまつわるサイドメニューを時々アップします。
 それとは別に『市史だより』に1頁いただくようになりました。出たばかりの最新21号からスタートです。紙媒体の方もごらん下さい。


 山ガールなんて言葉が使われるようになって久しいですね。人生、山もあれば谷もあります。というわけで、谷ガールです。

 NHKのブラタモリ博多編では、平坦な博多部のほんのわずかな起伏が、歴史を読み解く鍵でした。しかし旧福岡城下に目を転じると、けっこうなアップダウンがあるのは地元の方なら御存知の通りです。

 『市史だより』第21号の特集は、そんなアップダウンの攻略を試みた、「四十八渓ウォーク――警固・赤坂・桜坂――」です。なるほど、けやき通りから南に入るとけっこうな坂に突き当たりますね。このあたりは丘陵の北端にあたり、尾根と谷が入り組んだ地形になっています。明治36年に刊行された『筑前志』(著者はかの福本日南!)には、四十八渓と書かれています。どおりで、現在でも〇〇谷と名のつく地名が多いですね。
 この地域には古墳もあり、古代からの営みがあったようです。近世には鷹匠や鉄砲・火薬に関わる者、測量、花作り、書家など、特定の専門的な職能に携わる藩士が集められたとか。

 複雑な地形のせいか、大規模開発を免れたこのあたりは、現在でも路地や坂道が入り組んでいます。この企画に参加した女性スタッフは、四十八渓ウォークを通して、谷に萌えてしまったらしく、飲み会の席で、「地蔵谷が~っ」「浪人谷が~っ」と熱く語られてしまいました。そんなこと言われてもなぁ……。
 でも、谷ガールとお付き合いしたいかどうかは別として、皆さんも『市史だより』をガイドに、細部に宿る歴史の痕跡をたどってみてはいかがでしょうか。表紙の坂を見るだけでも、健康によさそうな気がしてきます。

 しかし、よくもまあこんな企画を考えつくものです。皆さんは、福岡市内をこんな視点から見た事がありますか? どうだ、驚いたか!と言いたいところです。
 そもそも『市史だより』の特集企画全体が、編集委員長として自慢の一品です。といっても、私は制作には全く関与させてもらえません。企画立案から調査、執筆に至るまで(写真撮影も)、すべて編さん室の非常勤職員と嘱託員によって行われています。私は次にどこを取り上げるかさえ教えてもらえないという、トホホな状態です。きっと、教えたら口出しされると思われてるんでしょう。

 特に9号以降、地域特集になってからのとんがり方は並大抵ではありません。「七隈の土」、「多々良をたがやす」、「曰佐さんぽ」、最近の号のタイトルを見ただけで、切り口の冴え具合がうかがえませんか?

 お散歩のガイドに、蘊蓄を傾けるネタに、そして「わが町」への愛をはぐくむ一冊として、是非お手にとってごらん下さい。こんなに中身が詰まっていて、何と無料配布!1階のミュージアム・ショップ横のラックに、バックナンバーも含めて置いてあります。

2015年10月30日金曜日

「上書き都市」の起点は奴国 ~「新・奴国展」が切り開く新地平~


 1017日に、開館25周年を記念する本年度の自主企画展、「新・奴国展――ふくおか創世記――」がオープンしました(1213日まで)。ぜひご覧いただきたいと思います。
 それにちなんで、「上書き都市」論の続編です。今回はちょっとゆるいです(前回は厳密だったのかい! なんて突っ込みは止めましょうね)。

金色に輝く 新・奴国展 図録

上書きを一枚ずつめくっていくと


 「上書き都市」福岡の上書きはいつから始まるのでしょうか? 逆に言うと、現代に至るまで積み重なった上書きを、下へ下へと一枚ずつめくっていくと、最後にたどり着くのは?
 それは奴国です。
 というわけで、開館25周年記念の特別展は、上書き都市の原点たる奴国なのです。

 もちろん奴国以前にも人の営みはありました。しかし、何らかの政治的、祭祀的な権威を中心とする比較的広域的な共同体として、考古学的にも確認できる最古の存在は奴国でしょう。同様な存在として、伊都国が西に接していたのはいうまでもありません。

奴国の首都? 須玖岡本遺跡


 上書き都市の起点を論ずるからには、ここで最近30年くらいの発掘の成果強調に走りたいところですが、奴国の首都と目される須玖岡本遺跡に見られるように、調査の歴史は意外に古いのです。
 須玖岡本遺跡の発見は1899(明治32)年、住宅建築に伴う偶然の発見でした(ちなみに、伊都国王墓として知られる三雲南小路遺跡の発見は江戸時代の文政年間です)。

 このとき発見された銅鏡は、すでに小片に破壊されており、その後に調査した考古学者によって持ちだされ(当時はルールが確立していなかった?)、大学の研究室をはじめ、各地に散らばってしまいました。今回の展覧会の見所の一つは、それらの鏡片を可能な限り集めて復元展示を試みたことです。
 全員集合というわけにはいきませんでしたが、現在望みうる最良の復元になっていると思います。ぜひご覧いただきたいと思います。ご覧になって、何だこれだけかとお思いになりますか? それとも、なぜこれが同じ鏡の破片だって言えるんだろう、と不思議に思われるでしょうか?

 須玖岡本遺跡は、その後1979年から福岡市教育委員会や春日市によって発掘調査が行われ、1986年に国の史跡に指定されました。奴国の中心がここにあったことは、間違いないでしょう。

奴国の遷都? 比恵・那珂遺跡


 それはそれとして、上書き論者としては、原点である奴国という存在の認識をめぐって、上書きの上書きたるゆえんがほしいところです。思考方法として本末転倒? まあ、いいじゃないですか。

 須玖岡本遺跡から北へ約5㎞にあるのが比恵・那珂遺跡。JR竹下駅の東に、南北約2㎞、東西約700mにわたりますが、行ってみても遺跡らしい姿はごくごくわずかしか残っていません。それもそのはずで、この一体はオフィスビルやマンションが建ち並ぶビル街。なので、ビルの建て替えなどで一つ一つは規模の大きくない発掘調査を重ねた結果、次第にその全貌が明らかになってきた遺跡なのです。
 ほら、上書き都市らしくなってきたでしょう。

 須玖遺跡群と比恵・那珂遺跡群は、奴国の二大中心地です。須玖遺跡群は、古代のテクノポリスとよばれるように、青銅器をはじめとする生産活動の中心地、比恵・那珂遺跡群は、博多湾に近く、交易など対外活動を担っていたと考えられています。
 そして3世紀後半から、青銅器の価値が下がりはじめると、奴国の中心地は比恵・那珂に一本化されていきます。奴国の遷都か?

 そうすると、「最古の王墓」とも言われる早良平野西部の吉武高木遺跡は、奴国とどういう関係になるのでしょうか。考古担当学芸員は、私の素人っぽい質問に即答してくれました。吉武高木は奴国の一部と考えてよろしい。ただ、西は伊都国と接しているので、奴国の中でもやや特種な位置を占めるんだそうです。
 う~む、なるほど(分かったのかい!)。小国とはいえ、外部と接する周縁部には、やはり独得の意味があるんですね。


ナコピン・ナコポン、奴国八景、そして図録だ!



 今回もまた長くなってしまいました。頭が痛くなりそうとおっしゃる貴方に、こっそりお教えしましょう。「新・奴国展」の早回り、早わかりコースです。
 展示会場に、写真のようなキャラクターのパネルが配置されています。このナコピン・ナコポンの解説パネルだけを見ていけば、勘どころは一通り分かるそうです。子供の前でいい格好をしたいお父さんにオススメです。

 より本格的に一席ぶちたい方には、何たって図録でしょう。素人ながら断言させていただきます。奴国にまつわる現段階の学術的論点やトピックで、この図録に載っていないものはありません。
 厚さの割に値段が高いって? 図録はグラムいくらで売るもんじゃありません。奴国のすべてがここにあるんです。

 そしてもう一つのウリは、展示の第二章「奴国八景」(苦心のネーミング、みんな気がついてよ!)。図録の構成も同じです。
 瑞穂城市、那珂直道、比恵清水、月隈墓情(誤植じゃないよ!)、板付秋穂、須玖青炎、安徳奉矛、博多帰帆、これぞ八景!(意味わからんところもあるけど)。
                               

2015年10月1日木曜日

「上書き都市」福岡と歴史の古層 ~ブラタモリから考える~

街並みに浮かび上がる中世の博多


 919日放映のNHKブラタモリ「博多編」、ご覧になりましたか。103日には「福岡編」も放映されるらしいので、楽しみにしましょう。

 ところで「博多編」では、現代の街並みに残るわずかな高低差や微妙な街路のズレに注目すると、目の前に中世の博多が浮かび上がってくるような手法が、とても印象的でした。
 
 街に残るわずかな痕跡から、古地図を重ねたように過去が浮かび上がってくる。ブラタモリでは珍しくありませんが、これ実は、博多にぴったりの手法だったんですね。タモリさんに同行した2名の当館学芸員、いい仕事をしてくれました。


遺跡の上の街・博多


 番組の中で明らかにされたように、博多という街は何層にも重なった遺跡の上に乗っています。逆に言えば博多という街は、次々に過去の上に現在を積み重ねて出来てきたんですね。

 過去は個人にとっても社会にとっても、自分が何者であるかを確認する根拠として大事なものですが、反面ちょっと重たい足かせでもあります。あまり過去に縛られすぎると、自由な行動ができません。そう考えると、博多の土地柄というのは、いさぎよいまでに簡単に過去を振り捨てて、その上にどんどん新しいものを上書きしてきた場所だって思いませんか?

 タモリさんも番組中で、そんな趣旨の発言をされていました。さすがに鋭いです。


「上書き都市」博多


 歴史研究を専門とする私としては、過去を尊重しない=歴史の破壊と考えると、困ったことになります。なので、ここでは破壊ではなく「上書き」と考えてみましょう。コンピューターの世界で言うところの、古いデータの上に新しいデータを書き込んで、古いデータを消していく上書きです。

 上書きのミソは、古いデータが完全に消滅するわけではなく、専門的な技術で復活させることが出来るということです。ほら、新しい地下鉄を作るという上書き行為で、弥生時代の古層が姿を現したじゃないですか。


歴史の重みを感じない街・博多


 京都は1200年の古都ですが、福岡・博多は奴国からざっと数えても2000年です。でも福岡の町を歩いても、京都のような歴史の重みは感じません。犬も歩けば国宝に当たったりはしません。

 2000年の歴史を誇るにはちょっと軽いですか? でも、その軽みが福岡という都市の発展の原動力だったのではないでしょうか。そのことは、福岡という街が、煙突が林立する近代産業都市にならないまま、150万都市に成長したことと関係があるように思います。


北九州になりたくてなれなかった近代都市・福岡


 ある方に言わせると、福岡市は、北九州になりたくてなれなかった都市なんだそうです。重厚長大な産業都市北九州。それは近代日本の都市発展の王道でした。福岡市も当然のようにそれを望んで、しかし果たせなかった。
 
 ただし、「なれなくて残念!」、ではないところがこの話のポイントです。

 しばらく前まで、福岡市の経済構造を表すのに、「支店経済」という言葉がよく使われました。この言葉には、「九州の中心都市といったってしょせん支店でしょ」という、少し軽んじるニュアンスがあります。でも現在では、福岡市の特徴を「支店経済」と表現する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

 「本店」の重々しさ。それは簡単には変えられない過去の重苦しさと似ています。その制約から自由だった福岡・博多は、時代が重厚長大なモノ作りの「近代」から、消費と情報のハイパーモダン社会に突入する中で、一挙に成長を遂げたと言えないでしょうか。


「上書き都市」は歴史を抹消しません


 わりと簡単に過去にさよならをして、軽やかに(あまり深く考えず)新しいものに移っていく。しかし軽い分だけ、過去を徹底的に否定し、破壊し尽くすわけではない。微妙なところですが、むしろ近年の上書き行為は、その逆を行っているのではないでしょうか。

 地下鉄工事は典型的な上書き行為でしょう。でもそれが、幾重にも重なる歴史の古層を明らかにするのです。文献資料でしか知られなかった中世の博多は、博多遺跡群という形あるものとして、私たちの目の前に姿を現しました。その中世博多も、さらに古い過去への上書き行為の結果なのです。

 できることなら、福岡市の発展(開発)が歴史の尊重と二律背反にならないような視点を創りだしたいですね。上書き都市がもたらす歴史の誇り、ちょっと変化球かな?