2022年1月19日水曜日

2022年のはせべ

  大層遅ればせですが、改めて明けましておめでとうございます。本年も福岡市博物館をよろしくお願いします。

 例年のように、今年も5日から国宝 刀 名物「圧切長谷部」(へしきりはせべ)の公開がはじまりました(公開期間は1月30日まで)。
 当館の正門から、ぽつりぽつりと、明らかに遠方からとおぼしきお客様が入ってこられるところを目にします。もう何度目かのご来館でしょうか、それとも初めて? 本当にようこそいらっしゃいました。

 展示室前は例年のように長蛇の列、と申し上げたいところですが、この時期の公開にあわせてご来場される方の数は、ひところに比べると、だいぶ少なくなりました。いや、正直に申し上げると激減です。
 でも、私がとても不思議だと思うのは、現在も、展示室の中が、いつも心和む空気に満たされているように感じることです。私は、この雰囲気が大好きで、ときどき展示室に行ってはしばらく佇んでいます。もしかしたら口元がちょっと緩んでいるかもしれません。

 機会あるごとに申し上げていることですが、ここに現在の博物館が考えるべきとても大事な問題が現れていると、私は思っています。一月の国宝 刀 名物「圧切長谷部」、二月の国宝 太刀 名物「日光一文字」の公開、そして、大身鎗 名物「日本号」の通年展示は、当館が開館以来、恒例としていたことです。そこに、多くのお客様がご来場いただくようになったのは、私たちの働きかけによるものではありません。私たちが、刀剣公開の時期を心待ちにされている方々の多さに気が付いた頃も、たくさんのお客様にお並びいただいた末に展示室にお入りいただいていた頃も、拙いながら関連企画やグッズ制作・頒布を打ち出し始めた頃も、そして今も、ご来館される方々のなかに自然に生まれ、ずっと一貫して保たれ続けている、静かで真剣で穏やかで温かい雰囲気―この雰囲気を生み出す源は何なのか、そこに、これからの博物館を考えていくうえで欠くことのできないテーマを見出すことができると思うのです。


コロナ渦の前、2016年の圧切長谷部の公開を待つ皆様


 そして、福岡市民にとって今年注目なのは、もう一人の長谷部でし
ょう。もちろんJ1昇格、即陥落という不名誉なジンクスを打ち破った、アビスパ福岡の長谷部茂利監督です。昨年は勝ち点58を獲得しての8位(FC東京より上なのだ!)、シーズン当初に残留が目標だったことを考えれば大健闘です。8月25日、圧倒的な強さで首位を突っ走っていた常勝軍団の川崎フロンターレをホームに迎え、1-0で初黒星をつけた試合が今でも目に浮かぶサポーター、ファンの方は少なくないでしょう。今月23日からは宮崎キャンプも始まるそうです。
 コロナの感染状況が心配ですが、さらなる高みを目指して、長谷部監督、選手・スタッフの皆さんのご健闘をお祈りします。

 博物館もアビスパも、さらなる飛躍を目指して、どちらの長谷部も正念場。2月1日からは国宝 刀 名物「日光一文字」の公開もはじまります(公開期間は2月27日まで)。こちらもよろしくお願いします。

2020年12月22日火曜日

小松政夫さん、長い間お疲れさまでした

  コメディアンの小松政夫さんが、去る7日に亡くなられたという。私もそうだが、ほとんどの人がびっくりしたのではないか。享年78歳、私より3歳年長である。

 ウェブも含め、メディアの反応の大きさは、小松さんの隠然たる存在感の大きさを示すものだろう。私ども福岡市博物館にとっても、小松政夫さんは大事な方であった。
 当館は平成25(2013)年に常設展示をリニューアルした。国宝 金印「漢委奴国王」にはじまり、博多祇園山笠で終わる現在の展示構成はその時からである。実物大の山笠展示を見て展示室を出るところで、小松さんの映像がお客様を見送る仕掛けになっている。山笠の正装である長法被姿で、軽妙に持ちネタを挟みながら、最後に手一本の締め方で終わる、当館のお客様にはおなじみのあれである。

常設展示室の最後のコーナー 観覧者が等身大モニターの前に立つと
小松政夫さんが登場し、博多手一本を実演。


 リニューアル・オープンをひかえ、その収録を全て終えた小松さんに、一席付き合っていただいた。といったって私たちがお招きするのだ、高級料亭やクラブであるはずがない。感じの良いお店だったけれど今はもうない、西新の小料理屋である。
 今思い出すと夢のような気分になるが、酒がすすむほどに小松さんがおなじみのネタを繰り出してきたのだ。それも、さあ今からやるよ、ではなく、私たちと酒の上の馬鹿話が続く中で、とても自然な流れで、淀川長治さんから、よーやる、よーやる、よーやるゼリー、はてはテレビでは見たことのない小ネタまで、本当に可笑しかった。小松さんの慰労会のはずが、とんだ私たちの役得になってしまったわけだ。
 そのお店を出た後も、夜遅くまで、若手学芸員を相手に(あまり若くないのも居たが)、居酒屋の二次会に付き合っていただいた。

 その時の経験から思うのは、小松さんの芸は、演ずる空間の大きさを問わないということだ。テレビであろうが劇場であろうが、居酒屋のカウンターであろうが、同じネタが通用するのである。小松さんは、そんな不思議な存在感を持つエンターテナーだったと思う。

 少し真面目な話をすれば、小松さんはテレビが生んだコメディアンであり、テレビの時代を体現した人だった。
 そんな人は幾らもいると言われるかもしれないが、しかしテレビがメディアの王者ではなくなってからも、それ故に小松さんの露出も少しずつ減っていく中でも、小松さんはテレビの時代を体現しているという存在感を全身で示し続けていた。その意味で、小松さんは昭和のコメディアンである。戦後の昭和という時代があり、テレビの時代というものがあったのだということを体現していたのが小松さんである。
(言わせてもらうが、オレは「シャボン玉ホリデー」から見てるんだぜ!)

 そしてもう一つ付け加えれば、小松さんはそんな時代を言葉で語る証言者だった。小松さんが芸能界に入る以前のライフヒストリーから、植木等の付き人募集に応募してからの芸能生活のさまざまなエピソードは、何冊かの本になって読むことが出来る。
 小松さんの文章は、情緒的なのに歯切れがいい、不思議な名文である。私は『月刊はかた』に連載されていた巻頭エッセイを毎号愛読していた。これは平成20年から続いているそうだ。
 この文章を書くために、古い単行本を読んでみた。最初の単行本は『目立たず隠れずそおーっとやって20年』(婦人生活社、昭和60年)というのだが、この本、植木等さんの序文(「まえがきにかえて」)付きである。
 この本に見られる初期の文章のスタイルは、毎回涙腺を刺激するような近年のそれとはだいぶ違う。文体も「です、ます」ではない。例えば中学の後輩の長谷川法世さんにふれたあたりなど、「法世は博多弁の伝え方はさすがにうまいが“仁輪加”の血は俺の方が強いという気がしてしまう。」といった具合だ。

 初期の文章を読んで気がつくのは、近年の軽妙な博多弁で人の心に直接触れてくるようなスタイルは、長い間書き続けている間に創りあげた小松さんの文体だということだ。それもまた小松さんらしいと思う。
 『月刊はかた』の連載のタイトルは、「ながーい目でみてくれんね」。小松さんにふさわしい、本当に良いタイトルだと思う。しかし、小松さんにふさわしいタイトルだということは、小松さんが実際にながーいあいだ働き通したということだ。
 本当にご苦労さまでした。




2020年5月9日土曜日

長引く在宅の機会に、お片付け哲学について考える


 コロナ禍とそれへの対応の現状にはさまざまな評価があり得ます。しかし、医療従事者、行政、学校や企業などの現場、そして各家庭での市民の努力で、状況が少しずつ改善しつつあるのは事実です。もう一息、気を緩めずに頑張りましょう。

 ところで、コロナ対策のstay home を機に、思いきって不要なものを処分する断捨離に取り組む方も少なくないとか。それを通して日ごろの生活を見つめ直すことにもなるし、いい機会かもしれませんね。
 でも、人それぞれに思い出がつまった物を捨てるのは、決して簡単なことじゃありません。そんなあなたの背中を強く押してくれるのが、今や世界中で人気絶頂のこんまりこと近藤麻理恵さん。「片づけコンサルタント」というお仕事があるんですね。ウィキペディアを見てはじめて知りました。 

 こんまりさんのやり方はこんな具合です(アメリカのテレビ番組を見たことがないので聞きかじりです)。
 あなたは今その服にときめきますか?
 買ったときは明日着ていくのが楽しみだった服も、今はときめかない。すると容赦なく廃棄物の山へ。それがこんまり流ときめきメソッドだとか。 

 私はこのメソッド、というかその背景にある考え方にとても興味があります。過去の栄光でもなければ未来の希望でもなく、現在こそが、今ときめくことこそが大事。
 過ぎてしまった過去の栄光は記憶の中にしかありません。未来は不確かで不透明です。どちらもこの手に握りしめることは出来ない。確かなのは今この瞬間だけ。
 この考え方が説得力を持ち、広い支持を集めているのは、今の時代を考える上でとても重要なことだと思います。過去の栄光? そんないい思いをしたことはないよ。明日は今日より少しだけ生活が向上し、来年はもう少し良くなり、10年後には全く違う世界が待っているだって? 高度成長の時代じゃあるまいし。 

 こんまり流ときめきメソッドは、確実に現在という時間をつかまえています。とてもよくわかる気がします。こんまりさんは、とても鋭い時代意識の持ち主だと思いますよ。 

 ただ、それを認めた上で、私にはどうしても違和感が残るのです。過去に執着しすぎると前に進めない。それはおっしゃる通り。以前のブログで書いたように、福岡という街が発展してきたのは、過去に執着しすぎないという「美質」があったからです。
 しかしあまり過去に無関心でいると、必ずしっぺ返しが来ます。もう一度、似たような事態が生じたとき、経験から何も学んでいなかったことに気付いて愕然とするのです。
 コロナ禍という、ひょっとしたら百年に一度かもしれない歴史的経験をしている私たちは、そのことをよく考えておく必要があります。もはやパンデミックと完全に縁が切れた世の中に戻ることはないと考える専門家も多くいらっしゃいます。 

 私たちは3.11を、熊本震災をどのくらいきちんと覚えているでしょうか。私も人のことは言えませんが、その経験は現在に生かされているでしょうか。
 過去をないがしろにしない。それは、やがて過去になる現在を大切にすることです。こんまりさんの考え方と衝突はしないと思いますが、どうでしょう。

2020年4月18日土曜日

百道浜から

 新型コロナウィルスの感染が拡大し、非常事態宣言の対象が全ての都道府県に広げられました。私たち全員に、感染の拡大を防ぐためのあらゆる努力が求められています。福岡市博物館も臨時休館となり、在宅勤務の導入、出勤シフトの調整を行って職員どうしの接触を可能な限り減らしています。そのいっぽうで、「おうちDE福岡市博物館」と銘打ち、在宅でも楽しめるコンテンツの拡充をはかりつつあります。

 同時に、福岡市博物館がある百道浜地区・地行浜地区は、消防署や医療関係施設が数多く立地しています。私たち博物館スタッフは、自らも感染の危険にさらされる中で救急・医療関係の業務に携わる方々へ感謝するとともに、心からの敬意を捧げます。そのためのささやかな意志表示として、4月10日から、毎週金曜日の正午、#Friday Ovationに参加しています。


 百道浜にある博物館として、もう一つ心掛けたいことがあります。ご承知のように百道浜は1989年にアジア太平洋博覧会 福岡’89よかトピアが開催された場所であり、博物館の建物は博覧会のテーマパビリオンとしてお目見えしました。よかトピアは、福岡市にとってさまざまな意味で節目となったイベントですが、その一つに情報産業の発達があります。第三次産業の活発で層の厚い展開こそが、今日の福岡市の発展の原動力であるとすれば、情報産業がその中核を担うものであることは言うまでもありません。

 二つの民放局やIT関連企業、福岡の電波を集約する福岡タワーなどがある百道浜は、今日の情報産業の一大拠点です。それだけでなく、今日あたりまえのように存在する企画・広報・イベント関連のさまざまな業態は、それまで福岡市にほとんど無かったものが、よかトピアをきっかけに一挙に花開いたものです。歴史と現状を踏まえれば、百道浜は福岡市発展の原動力となった情報産業にとって、象徴的な場であると言えるでしょう。

 情報産業はすそ野が広く、企画やデザイン、印刷などの最前線は、数多くの小規模事業者やフリーランスの皆さまによって支えられています。そして、私たち博物館が日ごろ密接にお付き合いし、お世話になっているのは、そのような小規模事業者、フリーランスの方々、いまとても大変な立場で苦闘しておられる皆さまです。
 福岡市博物館は百道浜という、福岡市の情報関連産業のスタートアップの場に立地する博物館
として、皆さまと共にあり続ける意志を表明いたします。

 そうは言っても具体的に支える力が無いことを、本当に口惜しく思います。しかしほんの僅かでも出来ることがあれば、微力を傾けたいと思っています。何かできることはないか、ご一緒に知恵を絞っていきましょう。皆さまがコロナとの戦いを何とか乗り切っていただくよう、福岡市博物館は心から念じています。

2017年9月19日火曜日

訃報(西日本新聞台北支局長の中川博之さん)

特に親しかったわけではないし、長い付き合いだったわけでもないのに、突然の訃報を目にした後、体のどこかで、ざわつきがしばらく止まらなかった。

17日の夜、ぼんやりとパソコンでウェブのニュースを眺めていた私は、目に飛び込んできた1行を見て思わず声を上げた。西日本新聞台北支局長の中川博之さんが、台北市内でタクシーにはねられて亡くなったというのだ。まだ48歳というから、新聞記者としては働き盛りである。

何年か前、当館で特別展「世界記憶遺産 山本作兵衛の世界」を開催する前年のことだったと思う。そのころ台北支局長から本社の国際部に帰任されたSさんに伴われて、中川さんの訪問を受けた。それが初対面である。

来意は来られる前から分かっていた。そのころ筑豊総局にいた中川さんは、田川市の世界記憶遺産を所管する機構改革に批判的だった。その内容は、私も西日本新聞筑豊版の紙面で知っていた。記憶遺産(作兵衛さんの炭坑記録画)の保存・活用に関する委員会には、私は最初から委員長として関わっている。

私の意見を聞きたいという来意は、穏やかな表現をすればということであって、ざっくばらんに言えば、お前が居ながら何やってるんだという事だっただろう。でも私にすれば、もとより人事に口を出せる立場ではないし、機構のあり方についても、必ずしもSさんや中川さんと同意見ではない。まあそんなやり取りをしたわけだが、別に気色ばんだ話になったわけではなかった。

後から知った話だが、筑豊総局時代の中川さんは、行政や議員さんたちには、けっこう煙たがられる存在だったらしい。でもそれが批判のための批判ではないということは、批判される側にも伝わっていたのではないか。「また叱られに来ました」と言いながら、議員控え室に入っていけるような人である。煙たがられながらも受け入れられるのは、批判の根底に地域に対する愛があることが伝わっていたからだと思う。

中川さんと最後にお会いしたのは、昨年の1010日、台湾の新平溪炭鉱博物館で行われた、同館と田川市石炭・歴史博物館の交流協定締結式の時だ。これには前史がある。

Sさんは台北支局時代に、台湾と日本の炭鉱技術者の交流史を発掘した素晴らしいレポートを記事にされた。それに触発されて、私は田川市石炭・歴史博物館と台湾の炭鉱博物館との交流事業に関わるようになっていた。あまり広くは知られていないが(田川市、広報もっと頑張ろうよ!)、この交流事業は画期的なものだと、私は秘かに確信している。。

台湾という存在は、私たち日本人が自分自身を映す鏡として、独得の意味をもっているように思う。植民地時代を含めた過去の歴史、戦後から現在に至る東アジア国際政治の中での台湾の位置、日本の戦後の歴史意識など、さまざまな要素が複雑に絡み合って、他の諸地域がそうであるのとは微妙に異なる、独得の鏡となっているように思えるのだ。

炭坑という存在を介しての交流史という視点は、そこに結ぶ像を、意外な角度からクリアーにしてくれるのではないだろうか。Sさんの仕事を引き継いで、中川さんの現地報告に期待するところは大きかったのだが、本当に残念だ。

新平溪炭坑博物館を下ったところにあるのが十份の駅である。十份は、願いを書いた天燈(ランタン)を飛ばす行事で有名だ。昨年10月の新平溪博物館でも、雨の中を皆でランタンを飛ばした。一番大きなランタンに中川さんが書いた言葉は、詳細は忘れてしまったが、作兵衛さんと台湾をつなぐ言葉だったと記憶している。

ほんの小さな記憶の断片が集まって、それほど深かったわけでもない人との付き合いが、消しがたい存在となって残る事がある。ざわつきが止まらない私の中で、「安らかに」という言葉は、なかなか出てこない。中川さんの書いた記事を、改めてまとめて読んでみたいと思った。

2017年9月12日火曜日

こども大使、侮るべからず

本年度の自主企画展、「よみがえれ!鴻臚館―行き交う人々と唐物―」が、7日から始まりました。

日本が「シルクロードの終着駅」であるとするなら、博多湾はその表玄関でした。鴻臚館は、その前身とされる筑紫館(つくしのむろつみ)とよばれた時代から数えると、およそ400年(7世紀後半~11世紀前半)の長きにわたって、古代日本の外交と交易の最前線を担ったのです。

平安貴族が競って求めた舶来品=唐物(からもの)の多くは、この地を通って都にもたらされたものでした。また遣唐使や法を求めて唐に渡った学僧、鑑真のような戒律の伝授に日本に渡った僧なども、この地を通過し、あるいは逗留して、最先端の知識や技術をもたらしたのです。

今回の展覧会では、約40点の国宝・重要文化財を含む、500点あまりの資料によって、最新文化の玄関口であった鴻臚館の姿が明らかにされています。現段階における考古学、歴史学の最新の成果をふまえた、鴻臚館のすべてをお楽しみ頂きたいと思います。

今回の展覧会では、応募してくれた小学生の皆さんの中から、男女5名ずつ、計10名の「鴻臚館こども大使」を任命いたしました。小学生の皆さんに、ふるさとの歴史を知って貰うとともに、その大切さ、面白さを広く周りの人々に伝えてもらおうというわけです。

とはいえ、まあちょっとした話題作りになればいいか、という見え透いた魂胆もなきにしもあらずだったのですが(私だけか?)、侮ってはいけません。

こども大使の一人、百道浜小学校の丸山新奈さんは、何と開会式前日のプレス向け内覧会に自主参加!(当館では誰も頼んでいません)。大勢の新聞記者さんやテレビクルーに交じって取材してくれました。「ちょっと怖いな」と言いながら、取材陣の中に入っていく姿は感動的ですらありました。



新奈さんは翌日の開会式にも来てくれました。というか、すでに内覧会の前から、毎日のように通ってくれていたのです。これはもう、テープカットに入ってもらうしかないでしょう。



小学校三年生ですよ!
遊びほうけていた我が小学生時代と引き比べると、この差はいったい……

こども大使の皆さんには、9日の「古代衣装ファッションショー」にも、モデルとして登場してもらいました。



見てくだい。この真剣な眼差し!我々も見習って、これくらい真剣に取り組まねば...






2016年11月22日火曜日

都市福岡を極める/究める~その③ 150万都市のDNA~

半年近く滞った「都市福岡を極める」、またも忘れた頃の更新です。相変わらずでスミマセン。 

前回は、吉田初三郎の鳥瞰図を素材に、福岡市が明治以来めざしていた発展ベクトルの軌道修正という仮説を提示してみました。 

伸びやかに美しく、博多湾岸と近郊の観光・遊覧スポットを紹介する初三郎鳥瞰図。1936(昭和11)年の築港博覧会をきっかけに、博多商工会議所が依頼した観光鳥瞰図が示すものは、企業誘致から観光振興へという軌道修正への模索ではないか。 

もちろんそのような見方は、福岡市の今日に至る発展のあり方を知っている者の、歴史の後知恵です。企業誘致による産業都市化への夢は、第二次大戦後も放棄されてはいません。 でも、昭和10年代の観光鳥瞰図は、福岡市の都市的発展の動力が、「工場」から「交通」へと転換していくことを予見するかのような、あるいはそんな見方に私たちを誘い込むような魅力を秘めています。(この場合の「交通」は、広く人、モノ、情報の流通全般を指すとお考え下さい。) 

前田虹映「観光乃福岡市」(原画、福岡市博物館所蔵)
そう考えると、より興味深いのは前田虹映による鳥瞰図です。
虹映は初三郎の高弟にあたる人で、やはり博多商工会議所の依頼で福岡市鳥瞰図を描いています。 虹映鳥瞰図も、初三郎と同様に陸から博多湾を見るように描かれています(この構図が海港都市の鳥瞰図として例外的であることについては、前回ブログをご参照下さい)。初三郎に比べると、より絵画的で細密な描写が印象的ですね。画面のそこここにさまざまな人物が書き込まれているのも、注目ポイントです。 

そのような目で細部を見ていくと、福岡市の観光・遊覧都市としての側面がより強調されていることが分かります。それだけでなく、「工場」から「交通」へという視点から見て、見どころ満載なのが虹映鳥瞰図なのです。


部分拡大図①

例えば博多駅(画面中段右寄り、部分拡大図①)。駅に降り立った家族連れは明らかに観光目的でしょう。さらに拡大図①の手前、油山に遊ぶ人々は、服装から見ても行楽というより、ハイキングというモダンな言葉がぴったりです。ハイキングはこの絵が描かれた当時の新しい流行で、昭和10年前後にはハイキングの手引き書が数多く出版されています。


部分拡大図②

あっと驚くのは、部分拡大図②です。百道浜で海水浴を楽しむ横では、蒙古兵に切りつける鎌倉武士の姿が、そして沖合(というより目の前)には、何と沈み行く蒙古の軍船が描かれています。 現在に重ねて、同じ画面に歴史上の場面を描いてしまう。これはもう拡張現実の手法で観光に歴史を動員する、1930年代のARでしょう。 同時に、歴史を動員する観光プロジェクトで、金印はまだ影も形もないところも注目されますね。 



部分拡大図③

では「工場」の方はどうでしょうか。部分拡大図③をご覧下さい。画面右側の海沿いの土地は、博多湾築港計画で新たに埋め立てられた箱崎浜です。現在では流通関連の倉庫などを中心とした施設が集中しています。 画面上では、林立する煙突が印象的ですが、もちろんこれは想像図です。埋め立て完了と同時に工場が立ち並んだわけではありません。ここには、明治以来の博多湾築港の夢、すなわち埋め立て地への工場誘致の願望が表現されているのです。 

しかし全体図で見ると、願望の実現にしては存在感が薄いと感じます。それに比べて、雁ノ巣の福岡第一飛行場のしっかりした存在感はどうでしょう。 福岡市史の編集委員会副委員長をつとめて頂いている、長崎大学名誉教授の柴多一雄先生が最近の研究で明らかにされたところによれば、福岡空港は昭和10年代の初めには、発着便数、旅客数、貨物数の全てにおいて、東京、大阪をはるかに上回る位置を占めていたのです。 

いかがですか。
このように見てくると、虹映鳥瞰図はまるで、「工場」から「交通」へという福岡市の発展の方向性を予見していたように見えてきませんか? ちょっと乱暴かもしれませんが、150万都市福岡のDNAが見えたと言ってみたい気がします。 

はじめて公開される柴多先生のご研究を含め、本ブログで取り上げた福岡市の都市的発展の来歴について、今週土曜日の市史講演会で詳しく取り上げます。福岡大学工学部の石橋知也先生からは、戦後の都市計画と海に開いてゆく福岡市に関する、とても興味深いお話をうかがいます。

古代のロマンとはまたひと味違う、歴史的想像力の世界にひたってみませんか。 直前の告知になって申し訳ありませんが、是非ご来場下さい。

なお、福岡市博物館では、特別展示室Bで、展覧会「大正・昭和の福岡市ーアロー号とその時代」を開催中です。会場で、吉田初三郎と前田虹映の鳥瞰図の実物をご覧いただけます。こちらの方にも、どうぞお出かけください。




【チラシPDF】 http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/pdf/lecture12.pdf

【福岡市史ホームページ】 http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/

【大正・昭和の福岡市ーアロー号とその時代ー】http://museum.city.fukuoka.jp/exhibition/tokubetsu.html#arrow