2016年6月10日金曜日

都市福岡を極める/究める~その② 海を見ていた福岡~

忘れた頃にやってくる更新にお付き合い頂いて恐縮です。深く反省しております。。。

前回は、わが百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だったというお話から、福岡市博物館の正面ゲートが、さして便利とはいえないよかトピア通り側にあるのはなぜかという謎に迫りました。博物館の南北の軸線は、海に向かって開かれた百道浜の開発理念を体現したものだというのが、前回の結論です。

そしてここからは、前回の予告どおり、博物館の軸線が示す理念は、都市福岡の来歴を語っているのだというテーマに入ります。

百道浜こそ、福岡市がはじめて海に向かって開いた開発だった、なんてなぜ言えるのか。その問題はおいおい考えるとして、ここで、都市福岡の来歴にかかわる、面白い資料をご紹介しましょう。

地形を極端にデフォルメした技法が特徴の観光鳥瞰図で一世を風靡した、吉田初三郎による福岡市の鳥瞰図です。お好きな方は一目で分かりますね。依頼したのは博多商工会議所、1936(昭和11)年頃に描かれたものと考えられます。

博多観光鳥瞰図、原画、当館蔵


1936年は博多港の築港竣工を記念して、築港博覧会が開催された年です。博多商工会議所はこの機会に、観光振興の大キャンペーンを企画したようです。観光鳥瞰図を印刷して配布するのは、当時は最新流行の手法でした。それにしても超売れっ子の初三郎、さぞかしギャラも高かったことでしょう。

華麗な彩色と、広げた翼が博多湾を抱え込むような構図は、初三郎鳥瞰図の特徴を遺憾なく発揮して、心躍らせるものがあります。しかしこの鳥瞰図には、それ以外に特筆すべき特徴があるのです。
初三郎が描いた都市鳥瞰図の中には、福岡市以外にも海に面した海港都市を描いたものがたくさんあります。それらの海港都市鳥瞰図に比べると、福岡市の観光鳥瞰図の構図は、実はとても例外的なのです。

ご近所の例として、小倉の鳥瞰図と比べてみましょう。小倉は画面の手前が海、次に町があり、背後に山という構図で描かれています。実は初三郎が海港都市を描くときは、ごく少数の例外を除いてこの構図が基本なのです。初三郎は日本本土のみならず、植民地朝鮮の釜山・仁川や、大陸への玄関大連など、海外の海港都市も描いていますが、それらも画面手前から海・町・山という構図をとっています。これを仮に「海から都市」構図としましょう。

小倉市交通名所図会、北九州市立自然史・歴史博物館所蔵

福岡・博多を描いた鳥瞰図は全く逆に、画面手前に山(というほどのものではありませんが)、中央に町、そして画面奥に博多湾から連なる海が水平線の彼方まで広がっています。「都市から海」構図です。人びとの視線を「海へ!」と誘うような、強いベクトルを感じませんか?

福岡市観光鳥瞰図には、ほぼ同じ時期に初三郎門下生によって描かれたものが、少なくとも二種類知られています(原画と印刷版を合わせて一種類と数えて)。描かれた初三郎以外によるのも、すべて例外無しに「都市から海」構図なのです。
これは発注した博多商工会議所や福岡市観光協会が指定した構図なのか、それとも福岡市鳥瞰図を描こうとすると、おのずとこうなってしまうのか?
いずれにしても興味尽きない構図です。

ここでもう一歩、描かれたもののディテールに寄ってみましょう。福岡市中心部から現在の東区箱崎辺りにかけて、海岸に沿って建物が描かれていない長方形の空白の区域があります。これが完成したばかりの埋め立て地。埋め立てで港湾を整備し、同時に工場を誘致して産業都市として発展したいというのが、明治以来の福岡市の悲願だったわけです。

しかしこの鳥瞰図の主眼は、そのことよりも市内と近郊の観光・遊覧スポットを紹介することに重点が置かれています。築港記念で観光?
それは、近代福岡市がめざした発展ベクトルの軌道修正だったのではないかというのが、私の仮説です。企業誘致から観光振興へという軌道修正への模索が、昭和戦前期のこの辺りから始まっているのではないか。そして、楽しく伸びやかな遊覧都市を描こうとすると、必然的に「都市から海」構図になるのではないか。

このブログ初回の「上書き都市」論の中で、一度はめざした工業都市の夢をあきらめたことが、今日の福岡市発展につながったと申し上げました。明治以来の工業都市路線と、新たに芽生えた遊覧都市路線のせめぎ合い。それが初三郎鳥瞰図に表れているという仮説はいかがでしょうか。
そして、初三郎鳥瞰図の海に向かう伸びやかな視線は、後者の勝利を予測していた?
さすがにそれは深読みしすぎか!

でも、福岡市博物館が体現している「海へ!」の軸線は、都市福岡の来歴を物語っているという説には、ご納得頂けるのではないかと……ダメかな?(笑)